会計技術が発展して日本に流れ着くまでの歴史

21世紀の極東の事業会社で経理しています。毎月毎月の経理業務に疲れてしまいます。しかし、企業分析の起点となる簿記会計の歴史の成り立ちは非常に面白いものです。

経理に及ばず会計という世界はその壮大な成り立ちの上にたっていることをここ最近に知りました。図らずとも中々重要な役割を仰せつかっているのだなと思えた次第です。

そこで唐突ですが、会計をめぐる歴史を調べてここに書き綴りました。

なお、この記事は管理人がかつてはてなブログに掲載していた記事の転載となります。

始まりはメソポタミア

最初の会計記録(以下帳簿)は今から7000年前のメソポタミアで発見されました。当初は作物が余っているのか少ないのか判断するための書物でありもっぱら、お金を記録したものではありませんでした。

また、複式簿記が誕生するのは1400年代のルネッサンス時代となります。それまで人類は家計簿みたいな単純な記録(単式簿記は会計史では複式簿記の簡易形式なのでもっと後の時代の言葉だとここで知りました)を採用していたことになります。また、数字はアラビア数字ではないので非常に作るのがめんどくさそうです。

その後、メソポタミアでは商業が発展し貨幣はもちろん、銀行、売掛金、小切手など現在の商取引には欠かせない概念が既に出来上がっていきました。メソポタミア文明凄いですね。。。ただしこれだけの発展した概念を家計簿みたいな帳簿で記録するとなると大変でしょうね。余談ですが、当時すでにゼロの概念があったとされており、これも帳簿づくりに一役買っていそうです。

帳簿を作っている人ですが、文字が読めない人が多く帳簿を管理する人は位の高い政府高官たちが帳簿づくりに励んでいました。

時代は流れてローマ時代に

ローマ帝国では皇帝も金銭取引したという文献が出てきます。それを記したのが「The Deeds of the Divine Augustus 」です。文献によるとアウグストゥス帝の民衆への分配金、土地の付与、神殿の建設、退役軍人への寄付、宗教的な供物、芝居や剣闘士への支出などが記されていました。現代的な帳簿組織とは言えずとも金銭の支出を扱った書物ということで広い意味で帳簿とみなすことが出来そうです。

ローマにおいても小切手、抵当権、当座預金などの概念が存在しており支払指示書という文書もありました。分割返済が行われる場合、現代で言う得意先元帳を使用して債権の管理に充てていました。また年一で債権債務一覧表というものを作っていました。この時点で年一での決算スケジュールが出来上がっていたようです。

ローマ時代になると高度に教育された奴隷が帳簿の記帳を行っていました。(社畜みたいですね)それだけローマは文字の普及がなされていたのですね。またローマ時代に複式簿記の萌芽があったとする説もあるようです。

メソポタミア文明も古代ローマ帝国もどちらも高度で複雑な社会です。「複雑な社会構造を陰から支えているところに帳簿あり」といったところでしょうか。でなければ意思決定、徴税などをどうやって実施するか徴税される側にも納得の資料作りが必要になるわけですしね。

既に優れた商取引が発達していたにも関わらず複式簿記は生まれなかった

また、充分高度な文明を持っていたにも関わらず複式簿記は現れていません。これはゼロが発明されていないからだと言われています。ゼロが生まれるのは5世紀ごろのインドです。

ゼロの概念がないのにどうやって貸借一致するという状態が生まれるのでしょう。ゼロがなければこういった複式簿記で成り立つ原理原則が誕生しないことになりそうです。

ルネサンス時代で複式簿記は誕生

ルカ・パチョーリ複式簿記の理論化・体系化をなしとげるわけですが、それまでに時代や文明もいろいろな変遷を経て複式簿記が受け入れられる土壌が生まれるわけです。その具体的な変遷の一つには上記に挙げたゼロとアラビア数字の導入と普及があります。

そして商業を担う組織も様変わりしたのです。それまでは家族経営で事足りてた組織形態も商会の形成によりさらに複雑化します。家族経営においては単純な山分けという分配で足りるかもしれませんが、大規模な商会ともなるとその人に見合う給与、商材の管理、出資した人や銀行出資の把握等これまでとは次元の違う複雑な概念を扱わなければなりません。そうした要請からも複式簿記を普及たらしめる土壌が出来上がってきたと言えるでしょう。

また、商業組織のオーナーではなく徐々に使用人による帳簿づくりが主流として定着するようになります。赤の他人による会計を代理人会計と呼びます。代理人会計の歴史は古く、上記でも記したようにローマ時代による奴隷の帳簿づくりがそれにあたります。

これらの土壌があり、理論化も相まって複式簿記が普及していったのですね。

産業革命時代

産業革命期では諸々の制度が整いだし、いよいよ現代的な会計の様相を呈してきます。

様々な製造技術の発展に伴い、企業数も増加し、破産も多くなってききました。この背景もあり、会計士制度が導入されました。彼らは破産手続きや監査を主な業務としており今の公認会計士の業務とほぼ同じですね。

また、大規模な工場そして巨大な鉄道機構の出現、そして船舶の登場は減価償却という制度をもたらしました。機械の使用に伴って費用が発生するという会計上の概念ですね。これには機械は使用すれば使用するほど価値が低下するであろうという考えが背景にあります。

そのほか、貸借対照表損益計算書、また収益費用観という思想も生まれてきていよいよ現代的な制度が生まれつつあります。

日本への伝来

日本に最初に上記の流れをくむ西洋の簿記システムを紹介したのは、福沢諭吉です。ここにも彼の活躍があったのですね。そのうえ、普及にも熱心で福沢は簿記学校も作りました。当時より国が推薦して洋式簿記を導入する前に商家ではいち早く洋式簿記に切り替わっていきました。これには和式簿記などの帳簿づくりの下地があったことも一役買っていそうです。

まとめ

洋式の簿記が日本に流れ着くまでこのような発展があったのは経理事務を行う身として心にとどめておきたいところです。

また、こうしてみると、社会や文明が複雑になるほど会計もまた発展してきているという流れもつかむことができました。

記事上は載せておりませんが、証券取引や投資業の発展によって時価会計の流れもまた生まれてきます。これもまた社会の要請に応じて会計もそれにこたえる形で発展していくのですね。

そういった意味では、今後、暗号資産やデジタルマネーなどの新しい技術は、また会計にも何かしらの影響を与えてくるのかもしれませんね。

参考資料

会計史論
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